信号が青になったので横断歩道を渡ろうとしたら、車が突っ込んできてぶつかった。
当然歩行者は車に跳ね飛ばされ、大ケガをすることになるだろう。
これは日本の法律上はもちろん車の運転手が悪いということになる。法律上でなくても、運転手が悪いのはあきらかだ。
運転手が悪いのはあきらかであるのだが、果たして歩行者は車に跳ねられることを防ぐ手段はなかったのだろうか?
嫌な目にあったとしたら、それを防ぐ何かができたはずなのに、そうしないことを選択した自分に問題があったと考えたほうがいい。
上記のような言葉をどこかで目にして、自分の大切なノートに記してある。たぶんスティーブン・R・コヴィーが著書の『7つの習慣』だっと思う。
この考え方で考えると、先ほどの歩行者には車に跳ねられない選択肢があったはずだ。
それは“その横断歩道を渡らずに違う道を通る”選択なのか、“左右をよく見て車が来ないことをしっかり確認してから渡る”という選択肢なのか、どれが正解かはわからない。
どれが正解かわからないが、車に跳ねられない選択肢というのは存在したということだ。
この例をもっとヒドイ例で話すと、いきなり後ろから拳銃で打たれたとしても、打たれない選択肢があったということだ。
後ろから打たれたのに選択肢なんかないだろ!と普通は思うが、“その打たれた場所に行かない”という選択肢、またはその打ってきた人に何かしら恨まれることがあったのだったら、“恨まれない”ための選択肢があったということ。
息子が誘拐されたとしたら、“誘拐されるスキを作った”選択肢を選んでしまったということ。
家が放火されてしまったら、“放火させられる家”を選択してしまったということ。
普通に考えればこれらは不可抗力、つまりどうすることも出来ないだろ!って思う内容ではある。実際自分もそう思う。
しかし、嫌なことが起こったという現実は、それまでいくつかあった選択肢の中から自分が選択した結果であるということ。
なかなかそれで納得出来ないことは多々あるだろう。
でも現実に起こったことは受け入れなくてはならない。
それが自分の選んだ結果なのだから。